●本の紹介:貴戸理恵・常野雄次郎『増補 不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』イースト・プレス、2012年

著者は小学校の頃、不登校で今では大学で不登校の研究をしている先生です。
学校に行かなかった子ども時代を振り返りながら、不登校について考えています。
彼女は1978年生まれというから40歳すぎで皆さんのお母さんと同じぐらいの歳でしょうか。
そんな昔から学校に行かない人はいたんです。

この本の出だしは、学校に出かける朝の時間がどれだけ嫌だったかという筆者の小学校1年生の思い出から始まります。
彼女は朝起きる時間をじっとこらえ、お母さんに「学校行かない、行かない」と泣きながら目覚ましを投げつけたりして何とか行かないようにしたそうです。

彼女が不登校になって困ったのは「どうして学校に行かないのか?」という大人の質問攻め。
とくに彼女が不登校になった80年代はまだ珍しかったから、まわりの大人たちはさぞかしびっくりして、質問したでしょうね。でも一般に子どもは学校に行けない原因を言葉にできないからあまり聞かれると子どもは困ってしまう。

そして、発熱、おう吐、げりなどの体で「学校に行きたくない」を表現して、親に不登校を認めさせることが多いといわれています。
その後、中学生になって筆者は突然、学校に行く気になり、通い始めます。
それでも著者は「なぜ学校に行かなくちゃいけないんだろう」と疑問を抱えながら、ずる休みしたりしながら何とか中学、高校に通い、さらには大学まで進学したそうです。

彼女がラッキーだったのは、大学は「なぜ学校に行かなければ行かないか?」という謎が解ける場所だと知ったことがキッカケで、不登校の研究をすることになったのでした。
そうした末にたどりついた著者の結論は次のようなものです。

不登校のわたしは、「怠けている」「わがまま」といわれれば「悩み」「苦しみ」を強調するし、「かわうそう」「助けたい」に対しては「楽しんでいる」「放っておいてほしい」と返す。
そのうえ「学校にこだわらない」と言いつつ自分の不登校を誇り、「原因は社会・学校にとしながら「個人の選択の結果」を主張する。
矛盾だらけ。破綻だらけ。だけど、それで何が不足しているというのだろう?

純粋に自分の意志だけで選択するなんてことは誰にもできはしないのだから、自分の経験に一心不乱に責任を負おうとしなくてもいいのだし、生の気持ちを押し曲げてまで一貫していようとしなくてもいい、矛盾してもいい。
何だかぐちゃぐちゃ筆者は言っていますが、一言でいえば「あなたはありのままの自分でいていい」ということだと思います。
「何だ!そんなことか」っていう気もしますが、学校に行けないで後ろめたく思っている皆さんを楽にする言葉ではないでしょうか。